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2014/05/17

・笑顔ハプンシャー
笑顔ハプンシャー

船出のタイムがきたら君はゆっくりと右足ぜんしん、
白ひげの船長にあいさつし乗り込むんだけどささくれた船床に
左足、左足ひっかけて

サランラップを巻いてごまかす
かゆいかゆい、のは海の塩のせいさ

笑顔ハプンシャー
モーゼのように

何もかも解決する手立てはヨーソロー、
ありゃしないのだ

2014/05/15 か

・13:24

天気が雨、午後のちょっとまえからやんで。
生コンをながす。足のいたいSさん連日やってくれる。
風呂にはいりたい、湿気、じめっけ。
マスクをかぶっている自分の顔、半分かくれてる。

人に感謝することの、必要性。
気づいたら周りに誰もいなくなってた、
ということになるかもしれない。
損得勘定がまったく消えることはありえないのだろうけど、
そもそも損得勘定をあんまり厭う必要もない、かもしれない。

AMとのやりとり。自分に突く。突く。
納得いかないことも、ある。
それを主張するにはあまりにも「哲学的」かもしれない。
とか思う。
理解を求めることがいいのかわるいのか、
でも説得する気がないというのは、伝える気がないということだ。
それもあんまり。


こうやって、主軸が「自分」から「他者」へ移ることをしたい、
したいのに、ぜんぜんそうならない。
試みること。
実験すること。
そうして痛い目にあうこと。


・むかし橋本治の本で読んだ気がするけど、
「自分のことを考えるのが他人のことを考えることになる」
人と
「他人のことを考えることが自分のことを考えることになる」
人とがいるらしい。
近代と前近代のちがい、みたいな話だった気がする。
いやなんか記憶があやしいかもしれないが。

 

・このMacにどうだろう、人格はあるんだろうか。
キーを押されるたび、なにか思っているだろうか。

 

・おーいお茶が目の前にある。
未開封だ。
伊藤園、というところでつくっているらしい。
「おいしさの集大成」と書いてある。

これがいま僕の目の前にくるあいだに、
なにがあるだろうか。
お茶自体がつくられ、
その後ペットボトルにつめられる。
包装され、
ダンボールにはいり、
トラックにはこばれ、
運転手が小売店へもっていく。
「どうも」「どうも」
とやりとりされ、
この一本にかかる人の人数は
いかほどだろうか。
工場で5人
運転手1人
小売店3人
とかだろうか。

震災のときには、そういうことが自然と想像された。
いま、意識的にそう考えてみると、その人たちや、
このお茶がここにあること自体に自然と感謝の意が浮かんでくるような気がする。

なにしろ、お茶は水でできている。
たぶん。お茶っ葉とかでもできている。
それらは、自然のつくりだしたものだ。
それらを人工的に組み合わせて、おーいお茶ができている。
が、大元は人の手によらない自然物なのだ。
ということで、地球や太陽がつくっている、といえる。
つくっている、というか、できちゃうのだろう、自然と。
もちつもたれつ、有機的に網の目に、相互にもたれあって
自然の物象は存在できている。
というわけでこの僕もそうだ。
そのはずだ。
おーいお茶は、自然と人口が組み合わさってできているが、
人間だってそうなんだ。
人間と人間も、もたれあって存在できている。
その「もたれあい」を、意識できているか、できてないか。
それが、「感謝の意」かもしれぬ。

2014/05/14

・企画、6月22日、
アサダさんも、狐火さんも、まったく知らない存在の僕からのオファーを受けてくれた。
このメンツにきまってほんとによかった。
もっと、感謝しなくちゃいけない。
でも、当日、イベントが終わったあとに、
最大の「ありがとう」が出るんだろうな。


狐火さんHP
http://kitunebi.jimdo.com/

アサダさんブログ
http://maoasada.jugem.jp/

動画も張っていいかな。







この二人と、一日をつくります。
歌っていうのは「身から出たフン」なんだよなあ、
と思う。
それぞれの「身から出たフン」を、
そのくっさい臭いを嗅ぎにきてほしい。


くさいぞーーー

2014/05/13

・なんだろう。
13:30
なにを書くんだっけ。
なにを書くんかい。

嫌われること。自意識。
表現する、生きる。
態度。

「嫌な人」問題。
嫌な人である。
嫌なかんじ、である。
意図的にいやなかんじを演出する。
というか、なにもしていないだけなのだが。
自然と、なんの言葉も発しずにそこにただいると、自然といやな感じになった。

無干渉性。
無視。シカト。それが「いやなかんじ」。


ある人の理想。
誰に対しても笑顔でかんじよく接したい。
潤滑で、ハッピーな人間。
プラスとマイナス。


んー、たとえば、手紙とかくれる人。
その人にちょっと応対悪く、失礼で義を欠くと、
逆に過剰に反応を示したりする場合がある。
繊細だったり過敏だったり、義務感のようなものがあったり。

人間と人間の関係性の網を、
寸断したい欲求もあるのだ。
しがらみのめんどくささに、
自分のやりたいことを邪魔されることもある。

「自分のしたことは、した、ということを、覚えておくこと。」
悪事をしたら、それを忘れちゃいけないぜ。
これもひとつの、こうあらねばという理想像だ。




・13:42
僕はいやな人だと思う。
とかいうと、逆にうざいが、
冒頭からの文章は客観的なのかしらんがつまらないと思った。

ジブンジブンになってしまっても自分のことを書かないと面白みがない。
ないのかわからんがなんかだめだ。
だめだ、っていう感覚はなんかある。



・企画はメンツきまりました。6月22日ね。
まったくもって、フツーにというか地味に、でもデカ字で言いますが、

狐火
アサダマオ


という方々です。
それと沼田の3マンになります。

こういう企画をやるとなると当然宣伝をしないといけない。
これがほんとうにめんどくさい。
いやいや、「めんどくさい」とかいってなんかロックっぽいというか
変に男らしさを出そうとしてるんじゃないぜ。
というか、大変なんです。
元来気が弱い人間なので、人様に「企画来てください。これやります」
と告知するのもあらかじめ腰がひけてるのです。
あといろいろ用意するのとか書くのとかつくるのとかほんと大変です。
全部ひとりでやるのなんてとても荷が重いです。

告知もTwitterで「RT願い!!」なんつって、何時から告知解禁、とかいって、
もったいぶってやって一気にやってそんで効果をだそうとかいう勘定がはびこっているが、
実際そんなふうにちょっとお祭り風にしたほうが観に来る方もたのしいし、期待感があがるし、
だからそうやって自分たちの企画を自分たちで工夫して盛り上げようとするのは努力、肯定されるべき、
というか自然にオッケーなところの行動、というだけなのだね。

それがわかる、というふうにもってかないと、けっこう何もできなくなるんす。

だっからいろいろやんなきゃーだ。
誰か手伝ってください、とかいって、誰も手を挙げないのに言ってみるだけ言ってみるのは、
なんか調子にのって言っちゃったみたいで恥ずべきものだけど、
高揚もありつつ現状なんもはじまってない感でたっぷりだ。

えー狐火、アサダマオさんです。よろしくです。
6月22日下北沢Lagunaです。



・さて、バンド用の曲もつくんなきゃだー。
もっと、ブルース、やりたひけども、
とりあえずもっとふざけたいね。
5月10日の録画ちょっとみて思った。
様子探りすぎ、というか、ほんと実際ライブやってみるまでわかんなかったし。
あーこんなかんじかーって。
なるほどね、と。


いままでソロ、ひとりでやってきたのと違うこと。違う感覚。違う時間。違う空間。
それがどんなもんか、どうなのか、とかいろいろ考えてたけど、
可能性の方がたくさん見えてきて、これはもっとやれるんだな、知れないとこまでいけるんだな、
と、いまかんじてる。
かんじてることが新鮮なうちに、最適な曲をつくったほうがいいだろう。



南無三

2014/05/12 その2

・ほんとうは誰にも理解されない自分の原像を、
誰かに理解してもらいたい、それだけなんだ。
そこで共通線をはりたい。
誰もが理解できることじゃあ、共通線ははれない。


・具体的なことを書きづらいのは、迷惑を恐れるから。
でもそれだけじゃないと思う。
なにか開かないトビラがある。

 

・その日、来てくれた人、
落胆の顔なのか期待に適った顔なのか、
気にして、気にして、
いいかげん気にしたら、もう苛立って、
テーブルをたたきつけて席を立つ、
それとも、
僕は僕のできなかった幾千のことを、
悔しみながら次にたどり着く岸の錨を、
さがすこと。
星座を参照しながら、
地図を買い漁りながら、
方途をつけようとやっきになって。
「成熟」、条件を自分に課して、
君はクリアできるよ、と
軽々しく言えないことでも、
きっと朝陽はめぐってきて輝くと、
信じて力をこめて語ること。

 

・戦略と割り切り、政治がもっと採られなければ、
不必要にしめる首が増えるだけなのかもしれなかった。
自殺のことばかり考える人のように、
なにもかもやりつくした後にまだ絶望しか見えないとしたら、
自分で自分を殺すしかなくなるだろう、と、想像できる気がした。

 

・♪もしもこの世に言葉が無ければ ー 不可思議/wonderboy

6月22日のSEに流そうか、と思った。
「さよなら、」というアルバムがほんとうに良くて、
ほんとうに良い、と思える。
「ほんとうに良い」、って言っていいや、と思った。
まず、第一に、そう思うから。
つまり「沼田が良いと言ってた」と捉えられてもいい、
とかいうと、かんぜんに偉そうだが、
たとえ偉そうでもそうであるものはそうである。
「不可思議わんだーぼーいのさよならというアルバムは、
 沼田が良いと言っていたアルバムだ」
と思うべきであるし、というかべつにそんなことどうでもよくても、
端的に良いアルバムであるという事実をどうにもすることができない。
ただ、意外とでもそこらへんが、「評価」という例のアレの落とし穴にちがいないのだ。
みんな、落ちている。でも俺は落ちないよ、という余裕のぶりっこが必要項目なんだ。

 

・もっともっと、やけになりたいんだ。
バンドというのは同性愛だ、というのが持論だった。
でもそれをこうして明言することで、どこまでも意識的なアレコレがスタート。
するので、それはとうぜん、にんげんの快原理に照らして不合理。
不合理を信ずるのは、それでも必然なのかい。

 

・軌道修正しなければいけないのか、
それとも、装いを改めて、同じ方向へいくことが正しいのか。
もっとカジュアルに考えて、たったひとつの冴えたやり方みたいのを、
練り出すまで我慢するのが賢明か。

 

・15:03
なんというか、ブログに目覚めて?以降、
4月25日からのブログをちょっとばっと見てみると、
文体がGW以降でだいぶ固まったようなのがわかる。
自分が安定する自分の文体。
自分のサイズ、の服みたいなもんですね。
ある種の定形、そこから思考を出発させられるもん。
改行のリズム。
これらはなんのために書かれたか、に答えられんまでも、
とりあえず自分で自分の考えや感じたを言葉でもててると、
呼吸すっきりとして行動もやりやすい、という事実を発見している。
だから、しっちゃかめっちゃかしているときも、
ここで書きつけることで、自分の体勢が整うのですね。
だから、必要なんです。書くことが。
それを素直に認められる、くらいには思えてきた。

 


・こうやって書くことで、よくも悪いも人間性がまるだしに近くなっていくのだから、
恐れても時すでに遅し。
わたしはきらわれているのだ。
と、思っているのが関の山だ。身の程だ。分相応。
というか、書く際の最低限の覚悟たりうる。
ファックオフ。

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