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2014/05/27 その2

・えーと、えーと、
えっと

 

・うーん


・佐藤さんの姿勢を見てて思うこと、
時代性、年齢、
敏感さ、
騙されやすさ、
思い込み
可塑性


・コメント欄、
神保、宮台、東
知識人の役割、
「前衛」、それへの有意識化、
コントラ?


・沼田、という意識


・じゃあ、お前はどんな詩を書くの、という問い。
問いを出して答えること。
これはなんのプラクティスか。


・時代じだい、
きつねびさんのうたいかた、
福島、をめぐる考えや問いや感情の交錯、
観光地化計画、
小林よしのり、
AKB48、


・毒舌、
どこへ「毒」を?
いや毒をだせるのか、という。
毒蛇だから毒が出せる、毒のない蛇。
自分の思ってる軸で。


・イメージで書けない。
イメージはたくさんあるのだが、
それがコトバにおちつく段になると、
痩せる。
減少する。
だから、落ち穂拾い。


・顔をみてると顔が思い出される。
と、そういうとらえかたは心象的だね。
なにかを批評しなけりゃあいけないんだと思うよ。


・そうだ。批評だ。
「うまくいくこと」ばかり考えるだけになっている。
その上の、批評がいなくなっている。

いいか、わるいか。
たしかに儲けてるようだ、
成功してるようだが、
それが、いいか、わるいか、は、
次元を異にした問題として現れる。

逆に、売れてないようだ、
誰も見てないようだ、
という場合にも、
いいか、わるいか、は、
次元の違うところから批評する。

そういう
いい、わるい
が、
足らない。

いままで、戦後約70年かけて培ってきた
いい、わるい
の歴史は、
ここにきて一旦それら全て捨て去る、
という段階を経た。
たぶん。いやほんとにそうだ。
「いま」という時は、
その意味でとても本質的な時代なのだと思っている。
テクノロジーがひっぱてきた
いやおうなしの環境、時代変化
などなどによって、
いままでなんとなく涼とされてきた判断、物事が、
倫理が、
なしくずしに転換、というより無化された。

と、いう風にみえる。
と、いう風に僕は感じます。

あ、やっと主語がでてきた。

そうやって考えると、
震災が出した問いを、
いま現在僕たちは「答え」ていて、
その答えはかなりシニカルなんだろう。

少し前にケーズの田中店長と話したが
いま「ロックで世界を変える」
とか言っているバンドって、全くいない。
そんなこと考えることもなくなっている。
ように思える。
どこかにいるのだろうか。
いやいたとしても、それは時代に通用しうるのだろうか。

別に、「世界を変える」ことが不可能だ、可能だ、
ということでなく、
どんなに小さくてもいいから、
「これが正しい」と心底思えることを実践していくことが大事だと思う。
かなり当たり前のようで、なかなかそう思い続けるのは難しい。
やっと最近そう思うのが自然になってきてはいる。僕は。

そうしてそれは、どうしてもなんだか「小さくまとまって」見えがちで、
それがなんとなく物足りなさになったりするのだけれど、
そこは要するに頑張りどころなのだろう。
ただ、「大きくすること」が無条件にいいことだと思って、
あまり深く考えずにただ「大きく」する、みたいな感じは、
たぶん、微妙なとこだけれど、ちがうのではないか、と思う。

ここらへんはかなり重要なとこで、
いちばん悩みどころだったりするのですよね。
いつもいつもブレがちだけれど、
いい、わるい、を地道に蓄積しながら、
徐々にしっかりとしていきたい。

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2014/05/27

・久しぶりの更新にあいなってしもうた。
先週はライブを観にいったり渋谷で夜を明かしたりと
あんまり落ち着く暇がなかったかな。

なんだかインプットの時間が多くあった。


・きのうは休みで、
ずうっと動画を観てしまった。
やるべきことがたくさんある気がするのだけれど、
一本線を前に進めるものを、無意識に選んでしまっている。

遠隔操作ウイルス事件にまつわる情報をけっこう見た。
ビデオニュースを久しぶりに視聴。
年頭の東浩紀のものも見た。


・しゃべること。書くこと。
言葉との距離。
書くようにしゃべれたらいいな、
と最近調子のいいこと考えているけど、
書くことも間があくとノロくなる。
しゃべること、というのもきっと、
ひっきりなしにしゃべって仕上がってくる類のものなのだろう。


・同時代における立ち振舞を、
同時代の方々に見出す。
いま、なにを考えているのかを、
興味をもって見つめる。
時代認識も人それぞれ、
場所によって、状況によってそれぞれ。
「マクロに実践していくしかない」。

 

んー
自分のコトバはなににしても、
自分の中から探し拾ってくるしかないらしい。
いま頭の中で、文章の種みたいなものはぽんぽん湧いてたんだけど、
いざ書く段になるとそれはとたんに通用しない、
というか出てこない。使えない。
そういうことは音楽でもしゃべることでも頻繁にある。

どうも、頭だけで完成するものではないらしいのだ。
手や身体や息を伴ってようやく完成するので、
頭でだけイメージできてても仕様がないよ。

むしろ逆になんにも考えてない状態でも、
文章は書けるし、
人と話すときだってそうでしょ?
「考え」に頼らない時のほうが、
応用がきく、というかんじが多い。

頭の良し悪し、というのはそういうとき本当に関係ない、のではないか。

 

・関心が散らばりすぎた、というか、
ちょっとニュートラルポジションに戻らないといけない。
要は、前を向く。
横をのぞくのでなく。
べつに自己啓発でなく、やってれば自然とそうなる。

遠隔操作ウイルス事件、
の佐藤弁護士、を思い浮かべる。

((そういえば吉増剛造の書き方というのは、
((どうだったろうか

批評性、とか、自己批評とか、
まあ相対性とか、
そういうものがある。
そういうものにかなっているかどうか、
自己検討する習慣もあったりする。
そこらへんで基準めいて、
できてるできてないと峻別するようなことにもなる。
「どういう人になってきたいか」
ということを、あんまり考えても
それでどうにかなるものではない。
でも実際どうするんだろう、と、
判断を重ねていく、と
自然と、「ああこんなはずじゃなかった」
となってちょうどいい後悔が得られもする。
ちょうどいい後悔も必要だ、
というのでなく、
べつになんでもないのだが、
文章の流れ上、
いたしかたなく連ねてるだけである。


とりあえずどうでもよさそうなものをもっと言わなければならない。
あ、鳩が飛んだ。
なかなかいい。
お、つばめがガラスに突っ込んだぞ。
そうだそうだ。
ヘビが出て怖い。
いい感じだ。

そういう感じをもっとポケットに、ないし、
パンツの中にでも突っ込んでればよし。

落語と哲学はちがう。
ということがわからんといけん。

太宰治ってやっぱり偉大だったな、
と思うけれど、
その意味をつかむのは
大変、
だけどとてもおいしい。
明らかにおいしいので、
みんなそうしようとする。
というところに気づくとやはり、
より悲しそうに見える方に行きたくなるのが、
青年の心情というやつですね。


敬々

2014/05/21

・きのうは鈴木ノブさん企画@千葉ANGA。
普段のバンドや弾き語りの対バンとは異なるテイストの方々が対バンで、
新鮮な刺激があった。

そんななか、逆に自分のやっていることを見失わないというか、
軸をしっかりともつ、
おれはおれだ、
と言える自負がほんとなくちゃだめだな、と痛感。



・言えないことからはじまるような
書けないことからはじまるような
ほんとのことか ほんとじゃないか
もーよくわからんようなニュアンスの
糞 フン ふん を
出し切りたい。便秘じゃなく。




・いろんなもんがある。
いろんな世界がある。
それをそうととらえれば、
自分の弱点もあるし他の誰かの弱点もある。

景観と景観、そのちがいとぶつかりあい。
みたいな話を最近考えていたけれど、
実際にそれが自分の身にふりかかると、
かなりきついところもあるし、
おしあいへしあいのようなところもある。

一筋縄でいかないことがたくさんあるのだなあと
雨にしおれたフェンスの雑草を眺めておもう。



・こんなふうに、「思ったことを書く」
スタンスをとることが、
いったいどういう態度表明になっているか、
なにをメタメッセージとして主張しているか、
きのうのように「ちがった出どころの人たち」
と出会うと、そういった問いに答えを与えなきゃいけないのだな、
と感じる。

自分がいまやっていることは、
いったいなんだ。
いったいなにを大事にしようとして
なにを視ようとしていないのか。



・非僧非俗。
それはいっこの理想。



・自分の「方法」しかもてないのだから、
最遠距離だろうと、歩くことでしか出て行くことはできないのだから、
デカルトのように。



・迷いも戸惑いも表明すること。
自分ともっと近づくこと。
ステージ上でももっと。
なんだかんだで、他の誰かに、
寄る辺を頼るわけにはいかない。
そうしないと、「誰か」とも出会えないのだと思う。






・けっきょくけっきょく、
もっといいライブができるようになること、
それしかないのだなあ。
自分の表現を自分で守ること。
そこに旗をたてること。
そういう気概がないと、やってけないよ。

聞く人と歌う自分をつなぐ線が、
線が、ラインが、
うかぶようにみいだすように
なんというかあてにするなら
その線だ
その線にのっかるでも
つかまるでも
その線を太くするでも
いい
ただ線がありそれが
たしかにあるんだということを
信じることができれば。

2014/05/19 その2

・うごく。やる。うたう。なんじゃい。

・ケーズにいってヘルシンキラマダンクラブを観た。
ボーカルギターの薫くんの曲がいいしバンドも上手い。
いいなー。

観てて「バンドっていいな」、と思う。
そういうこと思わせるバンドは良いバンドだ。

それで思ったけど「弾き語りいいな」、と思わせる人ってあんまりいない。
いない、とか言うといささか否定的だが、
やはりバンドより「ただやるだけで楽しい」
という状態になりにくいのが弾き語りだと思う。

バンドの倍、工夫をいれなければ楽しくならないよな。

楽しい、ということはそれだけで人を巻き込む力がある。
「楽しい」ってなんだろうなあー

 

・とりあえずいまは稲毛のファーストキッチンにいてもうすぐ終電だ。
終電時間を意識してないとのりすごす。
それは回避せねばならない。


・23:26
バンド用の曲を書こうとしてて、
どういうかんじかね、とあれこれと。
バンドだから激しい曲を、と思っても、
そう単純かね、とも思う。
なんだか「バンド」と意識して書くことにまだ慣れない。
フウテンの頃も書いていたけど、
「沼田謙二朗」として書くとまたちがう。
いや変に意識する、というより、
出し切り方をまだ探っているんだろうと思う。


・それにしても朝読んだ加藤典洋、
本の名前を言うと「さようなら、ゴジラたち」
だ。たしか。
なんだかゴジラ一作目の物語の流れが妙に記憶にとどまる。
実際の映画を観ていないのに、その批評から物語を知ると
逆に興味が湧くということか。
芹沢博士。彼の生き様、人間性、
眼帯の向こうの哀しさ、
って観ていないのにすごく想像してしまう。
心にひっかかる。

戦後、という枠組み。
いま自分が生きている日本の地点。
その歴史、近現代史は実際、
人が生きられた確かな現実なのだが、
それを考えるときは思考の想像に依ってしまう、
というのはなんでもそうだけどでも
ないがしろにはしたくないことがたくさんある。


・エモーショナル。
加藤さんは文学青年だ。
だから、読んでいると、感傷的になる。
その読む感触が心地よくて、だから読みたくなるのだと思う。

 

・「死者」、という表現によく出会う。
震災の後には、僕もノートにたくさん
「死者」を書いた。
それを考えることは抜きにできない、と思った。
なんだかそれについて言うこと、語ることは、
ひかえるべきこと、のようにも思う。
書くこと自体が軽率かもしれない。

「死者」について考えること、
震災の後での時間による、表現の変化と経過、
自分自身の感じ方の変化。
いろんなことがある。
でもいくら考えても、
それはあくまで「考えた」だけにすぎない。


終電が近い。

2014/05/19

・16:51
いまは案の定イオン。久しぶりに書く時間をとる。
久しぶりだと、書く手がにぶい。
自分の観念というか、書き言葉と接続するまで時間がかかる。
たぶん、なんでもいいから書くことがないと、
生み出すことも少なくなっていってしまうから、
そう思うから書くのだろうか。


・いよいよ企画が近づいてきている。
15日、16日はライブだった。
連日やることはなかなかないので、
疲れなど心配だったが意外と大丈夫。
でも16日はわりとぼやっとしてた気がした。
ニシジョウさんやカガさんと終演後おしゃべり。
なんだか学校のような空気感で愉しい。
ニシジョウさんが横たわると、大仏のようだった。


・気になることを、つれづれと書いてゆく、
のがここのスタイル。
と思ってやってきてるが、
脈絡がないのもしっくりこない。


・とにかく、毎回ゼロから書いていかないと、
体勢が整えられないのだ。
毎回初心者のようになる。
毎回いちばんはじめに来る実感が
「書くことへの違和感」でもある。
こんなに「書くこと自体」への言及ばかりしていると
メタ志向が強まるように思えるが、
さあ、そこにも最近変化があるようだ。


・「メタ」をする。志向する。志す。
書くこと自体を外側から眺める視点。
そういうのが「メタ」。
眺めてる自分自体をさらにその外側から眺めると、
「メタのメタ」になる。
それ以降無限に「メタ」は自乗されてゆく。
無限に自分を説明してゆく。

ドストエフスキーの「地下室の手記」
なんかはまさにそういう感じだった。
「地下室」には「自分」しかいないので、
「地下室の住人」は「自分を外側から眺める自分」を作ることにより、
自分同士のコミュニケーションを発展させる。

みたいな。


・でも「メタ」ではお腹はふくれない、ということがわかってしまった。
いくら「メタ」を強めていっても、認識が多様になるくらいしか効果ない。
と思える。
「思索」と「行為」は次元がちがう。
もっと、「行為」が必要なのはごもっともだ。
あんまり「ごもっとも」に従うのもキライだが、
自分が望むものを用意するには、行動が必要である。

 

・17:14
なんで覚せい剤をやる人がいるのか。
覚せい剤って、どうやって、近づいてくるのだろうか。
売り人がどこかから近づくのだろうか。
覚せい剤をやって、大変まずいことになるのは
誰にだってわかるはずだ。
それなのにやる、ということは、なんでだ。


・語ること。語りやすいこと。言いやすいこと。
言いにくいこと、は、まず自分に対して言いにくい、
という実感を伴って表れる。
世間の事象に対して、それは自分に関係ないこととして、
いったん受け止めたい。
そのうえで、そのなかから自分に関係すると思えるものを考えたい。


・言葉、映像、全部「表現」だ。
人と人とが手を取り合って生きている、
というイメージでも、
互いの領土を奪い合って生きている、
というイメージでも、
そこに表出されたものがその世界の景観を決定づける。

この世界には多様な景観があり、
しかし地続きでそれらはつながっている。
景観ごとに、寄り集まる人の貌の様子はきまってきてしまうようだ。

景観と景観は、あんがいあまりぶつからず、
たがいにたがいの場所でそれぞれ棲息しているように感じる。
そのままこのまま安泰することが景観の目標かもしれない。


・ 考え方。世界認識。ヒトソレゾレ。
ひとそれぞれの、生きるよすががある。
モチーフにケチつけることは、たしなむべきか。


・本を読むと引き込まれるような、著者の考えや世界認識に染まる。
いくつもの本にそういう吸引力は備わっている。
だから、そうだとすると本を読むたびに僕らは
ひっかえとっかえ世界認識をあたらしくすることになる。
本だけじゃなく、そういう力が芸術にはあるのだ。

世界認識、ということに自覚的になって、
思想の優劣をそこできめる、
という態度がもっと一般的になっていいのではないか。
とか思うけれども。
それはどうなんだろう。
一般大衆にはついぞ関係ないドグマを、
非常に真摯な態度で追求しつづける哲学もある。
そういう哲学の恩恵を見えないところで一般大衆がうける、
ということも予想以上にたくさんある気もする。

いつも、よく思うのは、
そういう衣替えのように着せ替えられる世界認識、
それらがたがいに交じり合わないで別個に存在している様子、
その様子のナゾさ加減だ。

 


・17:49
立派な物言いを、や、真面目な物言いを、
たくさんしすぎた。
や や や
とかいうのは、照れ隠し、になってしまうか。
照れ隠しというのもいやだな。
や、また、自分のことばかり語っている。


・この人は、どういうことをやりたくて、
どういう世界認識をしているのか、提出しているのか、
ということが知りたくて気になるから、本を読むのか。
今朝、加藤典洋の本を読んでいて、
ゴジラ、戦後のこと、をすこしだけイメージした。

いくつもの、いくつもの僕の、僕らの知らない感情、
人々の人生、死。
いくつもの「魂」、それを象徴する「ゴジラ」という怪獣。
ゴジラ第一作目は観たことがないけど、いつか観てみたい。

「日本」という単位を、歴史性を含めて考えることをあまりする習慣がないので、
それは本を読むことによってやっと補填される。
「だから本を読むことはいいんだよ」と
なにかしら誰かに反論したいのかもしれない。

いま生きる日本、現在、たったいまも、
過去、きのう、無限のきのうからつながってきた場所、存在なのだ。
という「認識」をしないと、「未来」というのも構想できない。
だってこのきょう、きょうという日があしたになる、
ということが「未来」であるから。
そしてこの「きょう」には「きのう」が含まれているのだ。

「あした」という日に「きょう」と「きのう」をつなげていくのが、
地球がまわる方向なのである。

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