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倫理の弁証法を生きる

・たまたま、たまたま生きてきて、つうか生まれて、つうか、なんというか、選んだわけじゃないことも、選んだこともある。そこらへんは、肝心な人生の勘所とおもう。
 
勘所、というか、よく考えて、わかったほうがいいような。
 
で、自分で自分のしてきたこと、道のり、大げさにいって、舟、でも、なんでもいい。それに肯定力どんだけ使ってんねん。肯定の陰の否定があるね。
 
だから、自分で自分を、というのは、実はやさしいのでないか。むずかしいのは、では、なんだ。それは、自分で自分を、でないことだ。自分で他者を、ということになる。
 
他者、他人、他の人。他なる自分、といってもいい。
 
他に。どれだけ、他いったか。普段ぜんぜん他いってない。いってない他に、他が良くおもってるわけがない。
 
自分は、他を求める。これは身勝手に。他に尽くしてもいないし、他のことを考えてるわけでもなくとも。求めるのは自然。けれど求められた方は、なにを応えればいいだろう。
 
そこらへんの、「あいだ」に、私は入り込んでいたか。私は、主に、私のことを考えてるにすぎないのでないか。
 
私は私を大事におもって、あなたは、私を、大事と認めるだろうか。それでも、認めてほしいという感情を、わがままに要求することは、神の国があるなら犯罪とされただろう。
  
 
 
・倫理がこんなに安っぽく、インスタントでフローに要求される時代に生きているのに、本格的な倫理はいっこうに身につかない。しかしそれは、自分のせいである。「神」というのは、特定の宗教のなにかではなく、個人にとっての、私にとっての、相対的な次元を超えたなにかのことだ。倫理があるべき、おさまるべき場所を知っていて、示すもの。
 
考えてみれば、私的な神様、に相当するものは誰にでも潜在しており、それが空にあがった凧の糸の役割をしている。文芸批評であれば、その糸を名指して、糸を批評するだろう。
 
倫理の条件、みたいなものを考える。どうすればいいか、考える。なにが正しいといえるのか。神様にはお邪魔してもらう。自由に考える。もっと大事なことがある。でもその大事なことに、到達しない。到達しないまま死ぬだろう。「神様」だけが到達している。先に逝ったものも到達している気がする。現世に生きるものは、到達できない、というなかで、死ぬ、ということが目的かもしれない。
 
それでも、生き、倫理の条件を考えなければならない。なんであろうと、生きていないと、考えられないのだ。死んで、神様の国で、優遇してもらう。そのために生きてるあいだ、これこれこういうことしていこう。嫌だな、その考え方は。そういう考え方は、そういう考え方を導入して動員しようとする組織は、ほんとうじゃないんじゃないか。
 
作為や利己心はありふれている。どうやったって逃れられない人間感情もある。だけど偽りに無自覚なまんまなのは、よくない。特にそれを拡大しはじめたら。自分だけならまだいい。偽りを暴く、偽りを超えるにはどうしたらいいか。偉大な先駆者の影は日増しに薄れていってもう目をこすっても見えない。

明くる日

・きのうはラグーナでライブ。ジャージを着用しライブ。着替えを忘れました。でもそんな普段も大した格好ではないので、あまり印象変わらないようでした。

とりあえずクラプトンも武道館で下ジャージだったので、それをMCで言いました。

  

様々な面でもっと精進、心がけていこう。

 

 

・今日は夜、いろいろリズム、いろいろ音の間、気合い、いろいろ気をつけ精進どころ、と出会う。

出会えてよかったなあ、に。

 

散文が落ち着かない状態。なんとなく、心拍数が高いような気がする。でもたぶんそんなことない。

 

ラグーナ、次のブッキングも。決めて決めて、で。

 

 

・さて、なにかをゼロから、つくっていく。一旦ゼロにする。ゼロであればあるほど。純粋なゼロで。

きれいなゼロに0.1を。

いきなり10じゃない。

1。0.1。

 

小さい成功体験が大事。

ってホリエモンだなこれじゃ。

でも、そうだとおもった。

 

 

・主観。

デヴィ夫人のコメントは、彼女の主観。

その主観を私たちは、客観視する。

つまり客になる。

野次をとばす。拍手する。

 

気づけば、誰かの言葉、名のない言葉をしゃべっていて、それしか言えなくなっている。

最近糸井さんがちらほら「主観」について語っている。

 

間違いうること。

加藤典洋、敗戦後論の主張。

誤りうること。その強さ、与件。

「誤らない」場所で、なにを言っても、危険はないが、その声が響くこともない。

わからないこと。未だ、知りえないことを語ろうとしたら、危険な場所まで行かなければならない。

 

そう思うと、10年後くらいに、「あの人は偉かったなあ」という行動、言動も、予想できる気がする。

同時に、「誤りの可能性」からすんでのところで逃げ、「正しい」ことを言っているつもりの人の、逆の危険性もある。

リスクがない言葉は、つるっとする。

ざらっとする言葉は、危険である。

 

そして、危険な方がより良いのだ、という価値観を身につけたらつけたで、一気に陳腐な人間になるだろう。

ということもある。

 

とかくこの世はなんとやら。

ふいーっ。

寝ますか
 

ラグーナライブ

・ライブ前。
 
なんにしても、根拠がほしい。欲しい。考えが足りないままだと、長続きもしない。考えだけでも続かない。はんたいになにも考えないまま、ただ続けられる、ということもある。
 
「利益」について実行する力が俄然乏しく、それ故に、乏しい力を差し置いて考えあぐねたり、すぐ燃え尽きたり、気持ちが起き上がるたび、継続はかなわなかった。
 
だから、力自体を育てないとならないのだ。
そういう発想にやっとなりつつある。
 
力をつけるとは、毎日繰り返すことで、そういう自分になっていく、自己変化、自己影響を起こしていくことだろうと思う。 
 
力がつけば、それは裏切らないというか、期待だけしてしまうこともない。毎日の習慣、ルーティンをつくって、それを守ること。それしかない。それしか有効法はない。いろいろ右往左往して、しっちゃかめっちゃかして、なんの整理もつかないまま、月日を浪費してもなにも生まれない。
 
ということで、小さいことから始めないといけない。いつでもできることからやり始めないとできない。当たり前のことが当たり前のように、それができるのが当たり前だけど、当たり前になるまでは当たり前以上を見すぎる。以上を見ていても、それは降っては来ない。ただ見上げる自分が佇んでるだけで、首が疲れるのみだ。そしてそんな高いところにある物事にムカついてきたりもする。呪いが発生する。なにかを呪う力が育まれる。
 
つまり、すると、呪う自分になる。自分のしたことだけでなく、考えたことにも、自分自身がまず影響されるのだ。その恐ろしさ。だから、正しいルーティンがいかに重要か。
 
   
と、真面目だけだと、息も抜けなくなりがちですよね。冗談のひとつも書き込めたほうがいい。車のなかで今これ書いていて、変人に見られてないか、下北の通りは人が多くて、ガラスの向こうに緊張感かんじてます。なんだか毎日ブログでも書こうかい、となってんですけど、ひとりごとめいたこと書かれても困りますよねえ。
 
と、突き放しておかないといけないね。ときたま。
 
対思記ブログの方も最近は更新してます。

はすみんこれああはすみん、ね

・蓮實重彦さんのその動画をみた。話題になっていたから。三島賞の受賞会見。
かなり、笑えた。「芸風」と東浩紀氏。
蓮實さんの本は読んだことがない。 吉本隆明がくさしていた印象が強い。
たしか吉本さんが亡くなったとき、「握力の人」 という題の追悼文を書いていた記憶がある。

蓮實さんの前の町田康の講評、話は愉しかった。

 

・ゲスの極み乙女。を少しだけ聴いてみた。Apple Musicで。
高い。でも、指示表出なんだ。

 

・どこを目指すかというと、こうやって言葉を吐き出すフォームを安定させたい。
言葉を用いず、いわば沈黙の言葉でもって、 タメをきかせる吐き出し方もある。
けれど渾然一体となるほうを歩まんと。

 

・指示表出なら。自己表出なら。
「速さ」にこだわって、耽溺していると、
肝心の自己表出を取り逃がすよ。

黒い鳥がそう言った。 

・けっこう世間は、盛り上がり、盛り下がり、激しいですね、と。なんというか、なぜなぜどういう風に、みんな興味をもち、どこにその興味が消費されてって、脳に心にどう影響して、などを探っていったらどうだ、と。見てる側の、ニュースの消費者側の、メタ認知はどうだ、と。
「どうでもいい」、というコメントを、わざわざ書き込む輩がいる。もちろん、ほんとうにどうでもいいなら、わざわざコメントしてくわけがないのだ。と。
ネタになってる側は、とてもたくさん見られてく。でも、それを見てる側は、全く見られないのだ。注目されることの非対称性。この非対称性のなかで、みんな騒いでるのは、滑稽だ。と。
どういう人だろう?その人は。短いコメントでは、わからない。
 
んー、がんばらなきゃいけない。

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