2014/04/30 その2

28日のこと。
Twitterでつぶやいたけれど、
こういうブログの場では、
もすこし遅い速度で出てきた感想とか、
そこらへんひろえるわけだ。
Twitterって、つねに「その場で思ったこと」でやらないとだから、
どうしても言葉の速度が均一に早くなる。
そうすると、どうしても浅さになってしまうという。

「あの後こう思いました」
が多いので、ぼくは
ライブやって、次の日とか
「そういえばこう思いました」
とか、メールで呼んでくれた人とかに送りたくなったり、
よくするので、
まあそれはどんなことにでもある、
とも思うけど、やはりある程度気持ちの入った事柄、出来事
の後にしかそうならないのだと思う。
そして、
ぼくらは間違える。
表現を取り違えたり、
あとあと「あれやっぱそうじゃなかったな」
とか
言い過ぎとかいわなすぎもふくめ、
何だか気を使ったりずれたりは
よくあって、
でも重要なのは
訂正はできる
ということなんだと思ってきた。
だからこそ逆に、
ばんばん表出して
ばんばん修正して
という方がいいのだと思えてきたのだ。

だから最近「推敲する」ということに
距離をおこうとしている。
時代の速度、というものがあるとしたら、
おいつかない。推敲してたら。
そもそもなんで推敲するのだろう?
ということにほんとに答えられないと
ちょっと危ないな、と思う。
いやいや、「推敲しない」のに安心してると、
とてもまずいことにもなるかもしれないのだ。
びくびくしているのも、必要だろうか。



・きっと、人間の資質って、
ミュージシャンの資質 表現者の資質とかって、
ほんとに人それぞれその文字通り
だから、課題も、その人その人の大事なことも
みな違っていて
みな、ある意味みな多少すれ違っている。

たとえば僕の『大事』もパンパンの塔の『大事』もちがっていて、
ちがうはずで
その「ちがい」が悲しむものなのか喜べるものなのかわからないけども
<淋しさ>って
「おれの大事が大事だと取り扱われていないとき」
によく発生するものだと思う。
つまり
「あれ?『大事』を共有できてると思ったけど、なんかちがったのかな」
とか思ったら、それは淋しいだろう。

曲を書く人間として
まめさんの『大事』が完全に理解できるわけはないが
俺の『大事』とまめさんの『大事』にいくらかの距離があることはなんとなく感じた。

資質。それぞれの『大事』がちがうということは、
それぞれの生まれや育ちが違うということで、
どういう親のもとに
どういうふうに生まれ
どういうふうに育てられ
誰とどういうふうに出会い
なにをどう考えなにを思い
どこにいてどういう時代のなかにいて
なにを見てきてなにの近くにいたか

人間全てそれぞれちがう。
すべての人それぞれでちがう。
おんなじ人なんていないのだ。
そうやって、みんな
自分で選んだわけじゃなくても、
なにかを背負って、
自分の荷物を背負って、
結果的にできている自分の道を
生きている。
どうしようもないことも、
どうしてもやりたかったことも
そこには含まれていて、
「責任」ということがありうるならば
自分の荷物を背負って自分の道を生きることが
「責任」だ、と
僕の好きな人は言っていた。


結局いま僕はまめさんを媒介にして、
きっと自己問答をしている。
なにが言いたかったかというと
おなじ曲を書き歌をうたう人間として
まめさんはまめさんの資質をつきつめて
『大事』をつきつめて
というかつきとめて
やっていってほしいしそれが見たいなもっと、
という願望です。
もし時間があれば28日言いたかったけれど言えなかったことに、
「売れる」とか「売れない」とか
「食える」とか「食えない」とかがプロかプロじゃないかの基準じゃなくて
本気でやってるかやってないか
自分の生涯をどれくらい削ったか
がプロということだ
みたいな
ことがあって、
それを書いておきたかったです。
ということで
プロ
でいましょうなりましょう僕もがんばります。

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