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2014/05/02 その3

表現する人といない人がいる

YouTubeに動画を上げていても、なにも表現していない人がいるし、
ライブを見に来るだけの人でも、なにかを表現している人がいる。

と、いまおもった。

どういうことだろうか?


「マリヴロンと少女」という宮沢賢治の童話がある。
それも、表現する人と、表現しない人のちがいというか
羨望とかの話だと思うんだけど、
結局宮沢賢治はそのマリヴロンに
「あなたは自分を表現していない人、と思っているけども、
あなたが歩いてきた道の上には、あなたの芸術表現があるのです」
みたいなことを言わせている。
「すべての人の歩いた道の上には、いちばんたかい芸術があるのです」
のようなこと。



それはそれでいいんだけど、
それは最終的なことで、
結局現実界では「表現する人しない人」は、
二元論でわかれている、とひとまず考えたい。


自己表出、がある人、ない人、という区分だろうか。
だとしたら、一人一人がその全体で「表現する人、しない人」
と分けられるのでなく、
一人一人が部分部分で、つまり分人的に、
「表現している時の自分」と「表現していない時の自分」
をもっているといった方が自然そうだ。




そして「表現する人」とは、
自己のなかの一番核心にあって、
その沈黙の領域には
表に出ない様々な「表現の素」が眠っている、
というハナシ、、、

になると、
表現発掘論になってしまいそうです。
つまりその「表現の素」にも価値が、
値札がつけられて、
より希少性の高い「表現の素」が高い株になる、という。

という方向にいくとだんだん
「人間は平等である」
といえなくなってくるので
それはなんかちがう、といっておかなくてはいけないはずだ。



・「市場」というものがあって、
価値あるとみなされたものはそこにふるいにかけられ、
売れたり売れなかったりという劇を演じるはめになる。

さて、みんな、「そういうこと俺には関係ないし」
とか思っていても、
知らず知らずのうちに物事の価値観、見方が、
影響されている、ということはあるものだ。

「市場というものがあるかぎり人間は平等になれないのなら、市場なんてなくしたほうがいい」
という発想が出てくるのはいと自然なことである。

しかし人間の欲望、というものをパッケージングする、
という発想についぞ至らなかった思想は崩壊したのです。


つまり、人間、競いたいし、勝ちたいし、
それでエネルギーや想像力が生きてくるし、
いきいきと人間がしてくる条件て、
ある種のゲーム的な競争の上だったりする。
ということもけっこう常識的にわかられてきた。


だとすると、
「全部これでいいじゃん」
となりそうだけど、
なるならなってればいいのだ。
要はいたずらに不安感があったり、
不透明感があったりするのがまずいけないので、
それが払拭できるなら払拭したほうがいい。
なんか簡単な時代認識で前に進める姿勢がとれるなら、
それはとったほうがいい。
そういう知識や言説が手に入るならとったほうがいい。



・未来論、というか、見通しをしている本で
広井良典という人の本を以前に読んだ。
えー創造的福祉社会、という本だ。

それがおもしろくて、
希望が湧く本です。
そこに書かれていることが当たってる、
あるいは当たる、かどうかよりも、
「未来を見通そうとする」
「人類史から、一万年単位で考察をする」
という着想がいいのだ。

そのくらいの考えがいまちょうどいいとおもう。

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