2014/05/06 GW最終日その2

・19:00 @おゆみ野イオン内 サンマルク・カフェ
さっき精文館書店で舞城王太郎の文庫を買った。
イキルキス、という題。
昔 文学極道というところに詩を一度だけ投稿したときに、
「舞城王太郎に似てる」といわれてそれからはじめて読んだけど、
とても壊れているし好きな作家。
とか言うのは無防備すぎるのだろうか。
どうでもいいけれど、ハイパーなもの、
園子温 新井英樹 ・・・
ハイパーなものを表現する人たちには
ひとしなみ憧れがあるし凄いとおもう。
「凄い」と思う。
でも「凄い」と思わせるものはなんなんだろう。
舞城も「凄い」。

人から「凄い」といわれることを目指す、
そう言わせるように、圧倒するようにものをつくる。
そうやって人から言われたら、なにかしら自己の安定になるだろう。
凄いねって。おれ、凄いかなあ、って。

突出した存在になる。ツイッターでフォロワー数をむちゃくちゃ増やす。
誰もが認めざるをえない圧倒的な存在。作品。

 


・19:07
いま耳に流しているのは吉本さんの太宰治についての講演。

転換期において、文学の心づくしのありかた。
転換期において、読者がどう変化しているのか、考えること。
純文学なのに通俗作品になってしまう作家。
太宰は、通俗めかして純文学だった。


要は、きっと要は、同時代の生きる人に対して、読者に対して、
疑いながら、考えつくしながら、心をこめて書くこと。

そこまでできているのか?と。
単に、自分の、反射的要求にしたがって、おまえは書いてるだけじゃないかと。

 

・19:12
「心づくし」というのは、階段の上のはなしだなあ、と思ってしまう。
つまり、自分のことに手一杯の人間には、考えきれないことがらだ。

いまの時代。

むかし「恋空問題」みたいのがあって、
映画の「恋空」がやってたとき、それがいろいろ議論を呼んでた。

つまり「文脈」がぜんぜんないと。
いきなり妊娠したり、ケンカしたり、、、
物語の必然性が及ばない領域ですすむオハナシが、すごいと。

まあおれは恋空みてないけど。

そこらへんを考えると、舞城もそうだけど、
律儀な「物語」というのが有効性をもたない世界というのは、ある種当たり前になってると思う。
そういう時代で、そういう時代領域が拡大していて、
だからそこを前提としてものをつくるのは当然のはなしだ。

 


・19:18
「軽い」と「重い」。
おもーい気分のときは、行動あんまできないよね。
軽くなって、それからぴゅっとやれることのほうが、結果も晴れたりするんでないか。


常に自分の枠を拡大するようにしてないと、
「生きてる」と思えない人格の特徴。
舞城も園子温もそういうふうにみえる。
作品上でそれをしてるような。

うんこフェラチオちんこ精液
そういう単語が舞城の本にけっこう出てくる。
そして、人が死んだりが重みなく、「設定」的に記述されていく。


うーん
批評みたいなこと考えてても、しょうがないんだけど、
他人の批評を通して、逆説的に自分の「核」を明らかにしたい、
という狙いもありうるだろうか。

 


・19:23
誰かとしゃべりたい。
ほんとは友達がほしい。
でも立ち止まってほしい。
感覚的になりすぎないでほしい。

 

本を傍らにもってきてしまっているので、
ゼロベースで考えること、向かうことができないでいるんだ。

普通の人、平凡さ、
きのう言ってた還相の視点。
吉本さんは言っていなかったけれど、
<還相の価値>という概念もありうるかもしれない。
既成の価値概念を、社会的な価値概念を、
とっぱらって本質的に浮かび上がってくる「価値」をよすがにできれば。

「ほんとうの考えとうその考えをわける。その実験の方法さえわかれば」
自己表出がほんとうの価値で、それは、内臓的な価値といえる。
表皮の部分で感動や感心することと、内蔵で感動することはちがうだろう。

もっと通俗的にいってみたい。
自分がもし死んで、死んだあとになって振り返って、
「ああ、あのときやったこと。あれはやってよかったなあ。」
とか
「大事なことというのは結局あれだったなあ。」
ということが、死んだあとに思えたとしたら、それが<還相の価値>だ。

としたら、反対の<往相の価値>がどんなものかもわかってくる。

ヘッセのシッダールタみたいな、様々な成長物語の典型によろしく、
「金」「名声」「地位」
みたいなものは、おしなべて<往相の価値>で、つまりほんとうの価値ではないことになる。

ほんとうの価値。ほんとうの価値観。
そういえるものがわかって、身につけられたら、生きることはもっと素敵で楽になるのでないか。

そう思う。素朴にそう思うし、
またみんなそれを求めていることもわかる。
どんな人でも、どこかで、生きづらさをもっている。
生きづらさ。なんで生きづらいんだろう?


求めても得られない。
存在を認めてもらいたい。わかってほしい。
気持ちを、感じたことを、自分の考えを、共有してほしい。
愛がほしい。愛に満たされたい。
人に、愛を、与えたい。

欲望や願望は、それが満たされないからつづくのか、
それとも、それが満たされたら満たされたで、また別の願望、欲望が出てくるのか。

願望、というものをなくすことはできない。
それは夢にもなるし、希望にもなりうる原素だ。
欲望をなくすことはできない。
しかしそれをもっている限り、絞め付けられるような現実の様相がある。

「欲望を捨てよう」という主旨の言説は、そういうコトバは、
いつの時代も本屋さんで見かけることができる。
でも、縮小することはできても結局捨て去れないものを、
放棄する努力を重ねることが、どれほど有効だろうか。
と、思ってしまう。

なんにしても、「処方箋」としてしか構想できない考えは、
ほんとうには普遍性にならないんじゃないか。
小さい思想はいらないんじゃないか。
でも「この中に全人生を投影できる!」
と思えるほどの思想は、マルクス主義を筆頭に、死に絶えてしまった。


「ポストモダン」と呼ばれた思想群やコトバが、
去年のある時期にものすごく迫ってきて、そういうものを集中的に読もうとした時期があった。
去年、LOST IN TIMEの海北さんとルックで対バンして、
それは9月だったけれど、その後の時期だった。

あれから、なんだか、浮かばなかった。

海北さんはすごく俺のことを褒めてくれたし、
サイトウさん(千葉LOOKの店長)も認めてくれたように思う。
でも、なんだか、見失った。

ライブをやって、褒められることがある。
案外、よく褒められる方だと思う。
特に対バンやライブハウスの人には。
でも、一般の人、お客さんに、とにかくまったく受けない。
リアクションがない。

ライブ中はいちおう自分の空気のなかで、
みんなけっこう聴いてくれてると思うし、
反応もある。
でも、声をかけられるのは、ほとんど対バンとか、要は「玄人」だけなのだ。

そういうことを書いてて情けない。
単に褒められたい、受け身で、反応を待ってるだけの自分というのが浮き彫りになる。
事実その通りだと思う。
人生単位で、やりたくないことはやらないできて、ほんとうはなにもかも中途半端なくせに、
なにかやれているふうの顔をしているだけの人間に、特別な興味を示してくれる人はいない。


さて、ポストモダンにいったのは、
それまで自分が信じてきた方法論、つまり「モダン」の方法論が、そこで挫折を明らかにしたからだと思う。
ちがう言い方でいうと、
「芸術というのは自分の内的な表現をつめこんでいけば高い価値になる。そしてそれが誰かに伝わるのだ」
ざっくりすぎるけどそんなかんじに思っていた。
震災が起きた時も、
「500年に一度の地震ならば、500年以上の風雪に耐える強度をもった芸術、これがなければ通用しない」
と思って、そういうものをやらなくちゃいけないんだ、という考え方をしていた。

ポストモダンというのは、そういう一種の「信念」とか、宗教的な教義のようになってしまう考えを、
ぜんぶ脱臼させてしまうような思想だった。
意味なんてない、と。
それまで支配的だったマルクス主義的な考え方、理想論を、
「そういうのはほんとうは嘘だ。だめだ」
と破壊しつくしていった。

といっても、まともになにか本を読みきったとかではなくて、
でもなんだかいくつか読んでいて、
僕にとって重要な、(僕にとって、というのが重要なんだが)
必要な、くぐらなければいけない「門」みたいなものがそこにあったのだ。


結局、ポストモダン自体も脱臼可能なものにすぎないだろうと思う。
そして、人はやがていつか死ぬ。
死ぬまでの時間を人は生きて、
その人生をどう歩いて行くのか、
その歩き方は各人それぞれの自由だ。
なにを信じても、なにを思っても。

「これが答えだ」
なんていうものはないんだ。
寄りかかれるほどの思想や考えなんて。
ただ、自分が生きるなかで、しっかりと歩くこと。

そして、未来は続いてゆくということ。
自分が死んだ後も。
それがとても重要だと思う。
「重要」、なんて言葉でいうことでないけど、
イメージのレベルで、
「死後の世界」がありうるとすれば、
「自分が死んだ後のこの世界」
といっていいんじゃないか。
自分が歩いた道を、
また他の誰かが歩くかどうかはわからない。
結局自分の道を、自分だけの道をつけていくしかないだろうと思う。
でも、強い人も弱い人もいるのだ。
「強い人間」だけが正しいのではない。
「弱い人間」も、正しいのだ、といえないのだったら、
人間というのは半分以上否定されなきゃいけないのじゃないか。

もし、自分の道をつけ、そこを歩き、
道筋がすこしでも残せたなら、
そこを歩く人が歩きやすいようになるのなら、
それが人が一人生きた意味になるのだと思う。
それはそう信じている。


やり続けるしかないし、
これを書いているのも、
自分が自分として生まれ、育ち、
いまこうしていることを最大限表現することが、
「生まれたことの責任」だからだ。
いやそう思えていないとしても、
しんから思えていないにしても、
そうなのだと僕は思う。


歌うこと。
身体的に、歌うことは、別段好きなわけじゃない。
でも、それが自分の表現方法になると思った。
音楽をやって、ギターを弾いて、
それだけじゃ、自分の表現方法にならないと思った。

自分の表現。
それに、どんな評価がなされようとも、
またはなにもなされなくても、
第一義に、生きることをやめることができないように、
表現することをやめることになんの正義もありえない。
同様に、表現することに、
それがどんな社会倫理や良識にそぐわないものだったしても、
ワクをもうけて制限すべきではない。
さらに、
表現の「規模」が大きかろうと小さかろうと、
その価値は、<還相の価値>は、
表現の規模の大小に関わりない。

ほんとうは「価値」なんて考え方自体、
かりそめのもので嘘のものだ。
たぶんそうだと思う。
人間は、気にしなくてもいいのに気にしてしまうものがたくさんある。
それをどうすることもできない。
でもいつの日か、ほんとうに自由になる日がくるとしたら、
その日のために小さなしるしを残しておきたい。
後ろからくる人たちが、少しでも目印になるようなしるしを。

 

・20:35
そろそろイオンを出よう。

コメント

非公開コメント

LINK