2014/05/08 その2

・おぼつかない。書く手がおぼつかない。書くことを制限してる。そして、迷いの記録が。
わかっちゃったらなんかだめだ。



・迷ってる。悩んでる。というか、反作用してる。いい気になってる。盲目に。
遠ざかっている。遠くなる。でもぼくは、暴力は使ってない。そういうことを、主張しておきたくなる。



事実を書けなければダメなんだ。



・なんでか非常に、ちぢこまる。なんでか非常に、制限される。
ブレーキする。狭めたところで、生きる。
こんなの自分じゃない。でもそうじゃない。
かっこつきの「自分」が、ぼやけていく。



自分を保つこと。
揺れる。地面が揺れても、立つ自分は上空に向かって背を伸ばしていること。



誰のことも、ばかにしないこと。
反動の王国を自分のなかに築きあげ、独裁者にならないこと。



・きっと、人と接せれば接するほど、社会のなかに行けば行くほど、
「書けない」ことは増えてくるのかもしれない。
具体的に、傷つける可能性や、誤解されることもある。



過剰に人を惹きつけることも、過剰に人に疎まれることも、
おなじようにダメなんだと今思いたい。
自分を、信じること。
そして疑うこと。
凡庸なる自分にエールをおくる態度を忘れると、
他人にエールをおくることはできない。



目的。
他人に、エールを送ることが目的?
エールを送る姿を目撃されること、
いい人だと思われること、
評価をあげること
が目的だろうか。



基準が「そとがわ」にあるより
基準が「うちがわ」にあるほうがつよい。
「天命を知る」なんてことは
なかなか現代人には遠い感覚かもしれないけど
僕がやろうとしていることは、
僕がやろうとしていることは、



まず、自分がそれを、「やろうとしていること」を、
忘れてはいけない。育てなきゃいけない。鍛えなきゃいけない。血肉にしなきゃいけない。



手続きが必要だ。



太字を使う、という態度そのものが、言語を伝達の手段と考えている証左になる。
さりげなさがない。
強調する、ということを選択するとき、それは編集者の態度を自分のなかに呼びこむことになる。
けっこうタフなことだと思うけど、難しい問題をはらんでいるし、一歩間違えると台無しになりかねない。
というのは言い過ぎかもしれないが、難しい、と思っておきたい。



・表現するのは、悪いことだという感覚があるかもしれない。
罪責感があって、なんでかというと、なんでだ。
現実逃避のにおいがあるからか。
そしてなにかを売ろうと、いや目立とうというのでなく
仲間を売ろう、というような気分が入っている気がする。



自分の大切なものを表現に売る。
表現価値に換算する。
そういうことを、生涯にわたってつづけていると、
なんでも表現価値にしか見なくなる。そういう人間が誕生する。



その気がにおう人物を知っている。
でも、彼は、そうじゃない気もする。
そこのところがよくわからない。
「いったいなんだろう」という気分にいつもさせられて、
それが人を惹きつける要因でもあるような。



「他者への愛は自己愛の対象的な疎外である」
ということばを思い出す。
つまり、彼に、自分のなにかしらの願望を投影しているかもしれない。
そこには同性愛的な、核の、愛の、なにかしら関係願望が後ろ手に隠されている。



きまって僕はいつも振り払わなければいけなくなる。
関係妄想にとらわれて、身動きできなくなるから。
そして考え続けることもストップする。
どこまでもわからないことが多い。
でも、ときにはわからないままにしておくこと、
放っておけることも重要なはずだ。



せめてもの、こうやって記述できることが昇華だとおもうしかない。



・つかれるなあ。
なんだかつかれるし、時間もない。
9:27
彼のことを思いながら、自分に対して自信をなくしたり、
はんたいに自分を信じる強制を強いられたり。
じゃあ、僕がそう思う理由ってなんなのか。
彼のことはわからなくても、自分のことはわかりうるはずだ。



ひとついいいたいことが思い浮かんだ。
自分が信じることを通すのに、
ほかのことを否定するな、ということだ。



否定するなとはむずかしいけど。



自分がそれを信じるのはいい。けれども、
なにかから逃げるように否定を重ねるとき、
自由や平等が傷ついてゆく。
自由や平等。
その否定した「やつ」だって、そんなに自分とちがうわけじゃないぜ。



そういうことは、その「信念」の強度に関わる。
いや、誰かの首をしめることになる。
そのうめき声を、自分が加害した人間のうめき声に耳をすませることを、
ついぞ放棄した「信念」は、最後自分の首をしめだすだろう。
とかね。

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