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2014/05/19

・16:51
いまは案の定イオン。久しぶりに書く時間をとる。
久しぶりだと、書く手がにぶい。
自分の観念というか、書き言葉と接続するまで時間がかかる。
たぶん、なんでもいいから書くことがないと、
生み出すことも少なくなっていってしまうから、
そう思うから書くのだろうか。


・いよいよ企画が近づいてきている。
15日、16日はライブだった。
連日やることはなかなかないので、
疲れなど心配だったが意外と大丈夫。
でも16日はわりとぼやっとしてた気がした。
ニシジョウさんやカガさんと終演後おしゃべり。
なんだか学校のような空気感で愉しい。
ニシジョウさんが横たわると、大仏のようだった。


・気になることを、つれづれと書いてゆく、
のがここのスタイル。
と思ってやってきてるが、
脈絡がないのもしっくりこない。


・とにかく、毎回ゼロから書いていかないと、
体勢が整えられないのだ。
毎回初心者のようになる。
毎回いちばんはじめに来る実感が
「書くことへの違和感」でもある。
こんなに「書くこと自体」への言及ばかりしていると
メタ志向が強まるように思えるが、
さあ、そこにも最近変化があるようだ。


・「メタ」をする。志向する。志す。
書くこと自体を外側から眺める視点。
そういうのが「メタ」。
眺めてる自分自体をさらにその外側から眺めると、
「メタのメタ」になる。
それ以降無限に「メタ」は自乗されてゆく。
無限に自分を説明してゆく。

ドストエフスキーの「地下室の手記」
なんかはまさにそういう感じだった。
「地下室」には「自分」しかいないので、
「地下室の住人」は「自分を外側から眺める自分」を作ることにより、
自分同士のコミュニケーションを発展させる。

みたいな。


・でも「メタ」ではお腹はふくれない、ということがわかってしまった。
いくら「メタ」を強めていっても、認識が多様になるくらいしか効果ない。
と思える。
「思索」と「行為」は次元がちがう。
もっと、「行為」が必要なのはごもっともだ。
あんまり「ごもっとも」に従うのもキライだが、
自分が望むものを用意するには、行動が必要である。

 

・17:14
なんで覚せい剤をやる人がいるのか。
覚せい剤って、どうやって、近づいてくるのだろうか。
売り人がどこかから近づくのだろうか。
覚せい剤をやって、大変まずいことになるのは
誰にだってわかるはずだ。
それなのにやる、ということは、なんでだ。


・語ること。語りやすいこと。言いやすいこと。
言いにくいこと、は、まず自分に対して言いにくい、
という実感を伴って表れる。
世間の事象に対して、それは自分に関係ないこととして、
いったん受け止めたい。
そのうえで、そのなかから自分に関係すると思えるものを考えたい。


・言葉、映像、全部「表現」だ。
人と人とが手を取り合って生きている、
というイメージでも、
互いの領土を奪い合って生きている、
というイメージでも、
そこに表出されたものがその世界の景観を決定づける。

この世界には多様な景観があり、
しかし地続きでそれらはつながっている。
景観ごとに、寄り集まる人の貌の様子はきまってきてしまうようだ。

景観と景観は、あんがいあまりぶつからず、
たがいにたがいの場所でそれぞれ棲息しているように感じる。
そのままこのまま安泰することが景観の目標かもしれない。


・ 考え方。世界認識。ヒトソレゾレ。
ひとそれぞれの、生きるよすががある。
モチーフにケチつけることは、たしなむべきか。


・本を読むと引き込まれるような、著者の考えや世界認識に染まる。
いくつもの本にそういう吸引力は備わっている。
だから、そうだとすると本を読むたびに僕らは
ひっかえとっかえ世界認識をあたらしくすることになる。
本だけじゃなく、そういう力が芸術にはあるのだ。

世界認識、ということに自覚的になって、
思想の優劣をそこできめる、
という態度がもっと一般的になっていいのではないか。
とか思うけれども。
それはどうなんだろう。
一般大衆にはついぞ関係ないドグマを、
非常に真摯な態度で追求しつづける哲学もある。
そういう哲学の恩恵を見えないところで一般大衆がうける、
ということも予想以上にたくさんある気もする。

いつも、よく思うのは、
そういう衣替えのように着せ替えられる世界認識、
それらがたがいに交じり合わないで別個に存在している様子、
その様子のナゾさ加減だ。

 


・17:49
立派な物言いを、や、真面目な物言いを、
たくさんしすぎた。
や や や
とかいうのは、照れ隠し、になってしまうか。
照れ隠しというのもいやだな。
や、また、自分のことばかり語っている。


・この人は、どういうことをやりたくて、
どういう世界認識をしているのか、提出しているのか、
ということが知りたくて気になるから、本を読むのか。
今朝、加藤典洋の本を読んでいて、
ゴジラ、戦後のこと、をすこしだけイメージした。

いくつもの、いくつもの僕の、僕らの知らない感情、
人々の人生、死。
いくつもの「魂」、それを象徴する「ゴジラ」という怪獣。
ゴジラ第一作目は観たことがないけど、いつか観てみたい。

「日本」という単位を、歴史性を含めて考えることをあまりする習慣がないので、
それは本を読むことによってやっと補填される。
「だから本を読むことはいいんだよ」と
なにかしら誰かに反論したいのかもしれない。

いま生きる日本、現在、たったいまも、
過去、きのう、無限のきのうからつながってきた場所、存在なのだ。
という「認識」をしないと、「未来」というのも構想できない。
だってこのきょう、きょうという日があしたになる、
ということが「未来」であるから。
そしてこの「きょう」には「きのう」が含まれているのだ。

「あした」という日に「きょう」と「きのう」をつなげていくのが、
地球がまわる方向なのである。

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