2014/05/27

・久しぶりの更新にあいなってしもうた。
先週はライブを観にいったり渋谷で夜を明かしたりと
あんまり落ち着く暇がなかったかな。

なんだかインプットの時間が多くあった。


・きのうは休みで、
ずうっと動画を観てしまった。
やるべきことがたくさんある気がするのだけれど、
一本線を前に進めるものを、無意識に選んでしまっている。

遠隔操作ウイルス事件にまつわる情報をけっこう見た。
ビデオニュースを久しぶりに視聴。
年頭の東浩紀のものも見た。


・しゃべること。書くこと。
言葉との距離。
書くようにしゃべれたらいいな、
と最近調子のいいこと考えているけど、
書くことも間があくとノロくなる。
しゃべること、というのもきっと、
ひっきりなしにしゃべって仕上がってくる類のものなのだろう。


・同時代における立ち振舞を、
同時代の方々に見出す。
いま、なにを考えているのかを、
興味をもって見つめる。
時代認識も人それぞれ、
場所によって、状況によってそれぞれ。
「マクロに実践していくしかない」。

 

んー
自分のコトバはなににしても、
自分の中から探し拾ってくるしかないらしい。
いま頭の中で、文章の種みたいなものはぽんぽん湧いてたんだけど、
いざ書く段になるとそれはとたんに通用しない、
というか出てこない。使えない。
そういうことは音楽でもしゃべることでも頻繁にある。

どうも、頭だけで完成するものではないらしいのだ。
手や身体や息を伴ってようやく完成するので、
頭でだけイメージできてても仕様がないよ。

むしろ逆になんにも考えてない状態でも、
文章は書けるし、
人と話すときだってそうでしょ?
「考え」に頼らない時のほうが、
応用がきく、というかんじが多い。

頭の良し悪し、というのはそういうとき本当に関係ない、のではないか。

 

・関心が散らばりすぎた、というか、
ちょっとニュートラルポジションに戻らないといけない。
要は、前を向く。
横をのぞくのでなく。
べつに自己啓発でなく、やってれば自然とそうなる。

遠隔操作ウイルス事件、
の佐藤弁護士、を思い浮かべる。

((そういえば吉増剛造の書き方というのは、
((どうだったろうか

批評性、とか、自己批評とか、
まあ相対性とか、
そういうものがある。
そういうものにかなっているかどうか、
自己検討する習慣もあったりする。
そこらへんで基準めいて、
できてるできてないと峻別するようなことにもなる。
「どういう人になってきたいか」
ということを、あんまり考えても
それでどうにかなるものではない。
でも実際どうするんだろう、と、
判断を重ねていく、と
自然と、「ああこんなはずじゃなかった」
となってちょうどいい後悔が得られもする。
ちょうどいい後悔も必要だ、
というのでなく、
べつになんでもないのだが、
文章の流れ上、
いたしかたなく連ねてるだけである。


とりあえずどうでもよさそうなものをもっと言わなければならない。
あ、鳩が飛んだ。
なかなかいい。
お、つばめがガラスに突っ込んだぞ。
そうだそうだ。
ヘビが出て怖い。
いい感じだ。

そういう感じをもっとポケットに、ないし、
パンツの中にでも突っ込んでればよし。

落語と哲学はちがう。
ということがわからんといけん。

太宰治ってやっぱり偉大だったな、
と思うけれど、
その意味をつかむのは
大変、
だけどとてもおいしい。
明らかにおいしいので、
みんなそうしようとする。
というところに気づくとやはり、
より悲しそうに見える方に行きたくなるのが、
青年の心情というやつですね。


敬々

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