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日々

・自分の納得する毎日をおくりたい。毎日のルーティンをつくり守っていくってのが大事なのだな。最近は、練習してストレッチして、というのをやっているけど、それだけだと外に発信するものはない。だからもうなにかが加わるのが必要で、たとえばブログを毎日書くとか、そういうことでもいいけど、じゃあ実際なにしたらいいだろうか、と考えあぐねていた。
 
いまにわかに流行ってる瞑想、及びマインドフルネス、をやっていこうかしら。でも、やるとどうも静的になってしまう。仙人というか、世俗からかけ離れる方向にいくかんじ。なんだかなにもできなくなる。これはちがうんじゃないか。
 
やっぱ、なにか「書いた」ほうがいいな、とおもった。いま、iPhoneで書いてるわけだけど、これでいいのかもしれない。手書きがいいとか、パソコンでキーボード使わないととか、色々条件や環境を先に考えてしまう。でもiPhoneで十分書けるしすぐネットにあげられるわけだ。これでいいのだ。
 
 
・新曲がつくりたい。つくらなくてはいけない。なんでこんなにふわっとしているんだろう。そんなはずはない。突き詰められていない。もう大分しばらく、忘れてしまっているものがある。
 
熊本の地震があった。驚くほど、無反応な自分がいる。東北のときとまるで違っている。並列に比べるのは単純すぎるだろうか。要は自分の「反応」に注目してる、そのぐらいだから、感想が薄い。この「薄さ」は、なんなのだろうか。その要因はいくつか考えられて、思いつくまま書き出してみると、

  1. テレビがない(東北のときは実家でテレビみてた)

  2. 揺れを体感していない

  3. 死者数や被害の規模

  4. 自分自身の余暇の少なさ


などがある。いずれも東北のときと比較して。あるいは、単純に他者の悲しみに共感できない冷酷な人間になったのか。
 
ネット世論というのか、空気というのか、倫理を過剰におしつける風潮も目立つ。
 
東北のときは自分の体験として感じられていた。でも今回の熊本は、そうならないのは、結局自分がどのくらい非日常においやられたか、その違いに過ぎないのかもしれない。たぶんそうだ。そしてそんなものでしかないということを、否定もせず、わかって受け止めながら、そうおもって生きていくもんだ、と納得している。
 
悲しいのに、大変なのに、そのはずなのに、自分は悲しくなれない、みんなとおなじ気持ちになれない。それにひっかかる。「ひっかからなきゃいけない」と、思わされているのかもしれない。
 
かつての自分の態度と、いまの自分の態度がちがう。「共感」できなきゃいけないような。でも、「共感」できたら、それが偉いことなのだろうか?
 
人が人を罵る。彼は罵られる。罵る側に、罵る資格は、あるだろうか。「お前がそんなこと言える器じゃねえだろう」といえば、大抵それで終わってしまうような物言いがあふれる。
 
などなど。

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