スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

倫理の弁証法を生きる

・たまたま、たまたま生きてきて、つうか生まれて、つうか、なんというか、選んだわけじゃないことも、選んだこともある。そこらへんは、肝心な人生の勘所とおもう。
 
勘所、というか、よく考えて、わかったほうがいいような。
 
で、自分で自分のしてきたこと、道のり、大げさにいって、舟、でも、なんでもいい。それに肯定力どんだけ使ってんねん。肯定の陰の否定があるね。
 
だから、自分で自分を、というのは、実はやさしいのでないか。むずかしいのは、では、なんだ。それは、自分で自分を、でないことだ。自分で他者を、ということになる。
 
他者、他人、他の人。他なる自分、といってもいい。
 
他に。どれだけ、他いったか。普段ぜんぜん他いってない。いってない他に、他が良くおもってるわけがない。
 
自分は、他を求める。これは身勝手に。他に尽くしてもいないし、他のことを考えてるわけでもなくとも。求めるのは自然。けれど求められた方は、なにを応えればいいだろう。
 
そこらへんの、「あいだ」に、私は入り込んでいたか。私は、主に、私のことを考えてるにすぎないのでないか。
 
私は私を大事におもって、あなたは、私を、大事と認めるだろうか。それでも、認めてほしいという感情を、わがままに要求することは、神の国があるなら犯罪とされただろう。
  
 
 
・倫理がこんなに安っぽく、インスタントでフローに要求される時代に生きているのに、本格的な倫理はいっこうに身につかない。しかしそれは、自分のせいである。「神」というのは、特定の宗教のなにかではなく、個人にとっての、私にとっての、相対的な次元を超えたなにかのことだ。倫理があるべき、おさまるべき場所を知っていて、示すもの。
 
考えてみれば、私的な神様、に相当するものは誰にでも潜在しており、それが空にあがった凧の糸の役割をしている。文芸批評であれば、その糸を名指して、糸を批評するだろう。
 
倫理の条件、みたいなものを考える。どうすればいいか、考える。なにが正しいといえるのか。神様にはお邪魔してもらう。自由に考える。もっと大事なことがある。でもその大事なことに、到達しない。到達しないまま死ぬだろう。「神様」だけが到達している。先に逝ったものも到達している気がする。現世に生きるものは、到達できない、というなかで、死ぬ、ということが目的かもしれない。
 
それでも、生き、倫理の条件を考えなければならない。なんであろうと、生きていないと、考えられないのだ。死んで、神様の国で、優遇してもらう。そのために生きてるあいだ、これこれこういうことしていこう。嫌だな、その考え方は。そういう考え方は、そういう考え方を導入して動員しようとする組織は、ほんとうじゃないんじゃないか。
 
作為や利己心はありふれている。どうやったって逃れられない人間感情もある。だけど偽りに無自覚なまんまなのは、よくない。特にそれを拡大しはじめたら。自分だけならまだいい。偽りを暴く、偽りを超えるにはどうしたらいいか。偉大な先駆者の影は日増しに薄れていってもう目をこすっても見えない。

コメント

非公開コメント

LINK

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。