家長シンジ解決どれだ?

 ・評論家・宇野常寛氏が語る『シン・ゴジラ』-この映画は99%の絶望と、1%の愛でできている – 木曜日のシネマ 
http://thursday.jp/archives/596

 

これはいい。そうか、「拡張現実の時代」か。しっくりきた。こういうしっくりは稀有。

シン・ゴジラ、僕も観たけれど、たしかにこれは「家長」の映画になっている。
エヴァのシンジくんみたいのは、いなくなってるのだね。 
「極限状態において家長たるには」
の映画なんだ。

「自分が主体となって問題を解決する」
ということが家長。
とすると、シンプルな答えがここにある。

8月15日に東浩紀、猪瀬直樹、津田大介でシン・ゴジラをテーマに含んだニコ生やるみたいだけど、
猪瀬の言葉で言えば、放蕩息子とは極限状態においてもクヨクヨしてる奴だ。
そんでそんな、クヨクヨしちゃうシンジくんに、シンジくんの純粋クヨクヨ原理に、
我々は共感をもってまなざした。

だけど、そんな「エヴァな時代」からいまは
「クヨクヨしたってどうしようもない」
ということが、苛立ちを伴って想起される時代へと変わった。
「おまえのクヨクヨとかどうでもいいから結果にしろ」
という結果主義のほうが優勢になってきた。 

 

・そんなこといろいろ考えながら、自分の辿る道すじについて思うわけだけど、
「震災の後」という曲はやはり「シンジくん」だった。
あのときは、とにかく最低限でも、「自分の主観」で感じたことを出したかったわけだ。
被災者であるとか、被災者でないとか、そういう区分けによって語る資格があるとかないではなく、
誰にだって自分が体験した主観的現実が存在するのは自明のことである。
だからあのときに感じた自分固有の(それがいかに凡庸に映ろうと他者と似通っていようともちろんそれは本質的問題でない)
内的体験、見た風景を刻印するのは意味があるとおもった。
そして、なぜだかそういう表現はなかなか(世に)少ないのだ。
いつでも、どうもみんな、自分を除外し、そのことに無自覚というか、
まあいわゆる<主語>がないのだ。(注:ネットに転がる言葉を主に想定してます)
いや「正しい」ことを言おうとしていたらそうなるかもしれない。
でも、間違えるのは当然なのだ。人間は。
その間違えながら、それで生きていくのだが、間違いにぶつからないと修正もできない。
間違えてないふりをしても、間違えてないわけがないのである。

 

・ 「できることをしよう」も、家長足らんとする言葉のはず。
つまり、責任をもつということですね。
それ、責任をもてることなの?ということ。 
だったら過剰にデカイことはできないわけで。
そして別に、いくら小さくても気持ちいいことはできるのだから。 

 

・そこらへんの認識から、新しい歌の方向性が見つけられそうな気がした。
一曲ずっとつくってて放置してた曲があり、まあ半出来のままライブでも何回かやったのだけれど、
SEALDsの歌で、オチ、というか結論が見つけられずに詰まってた。
 
さて、「SEALDs」というものは、その対象に対してどう言い動くかによって、
その人の人格思想が判断されるようなものとなっていた。
分水嶺。リベラルなのか保守なのか、リアリストなのか、、、など。
議論のネタとなって、対話の左右が極論化し、SEALDsという名前を前にした論争のための論争がどんどん広がっていった。
いろんなことがしっくりしない。
過剰な否定も過剰な肯定もおかしい。
このおかしさは、なんだろう。俺が主体的に放たれた意識ぶった言葉ばかり読んでるからか?
言葉をバランスよく組み立てるのは、きっととてもむずかしい。
だから最初からそれをあきらめれば、ラクはラクだ。(俺もそうしてるのだね)

言葉というのは、こうやって書きつければ、その記号が表にでるけども、書きつけない言葉は表に出ない。
でも表に出ないけども感じてることはたくさんある。
思ってることはたくさんある。
だけどみんな、「表に出てること」でしかコミュニケーションできないので、対話はいつも不完全で危うくて不可能で大変だ。
だけどそれやんないとどうしようもないのだ。

いろんなことが「上手くなんないと」いけないんだろう。 

コメント

非公開コメント

LINK