2017年に。

・2017年。新年になりました。
気になっていることをちらほら書いていきます。



・震災のときラジオデイズのUSTで「詩になにができるか」みたいな鼎談があり、そこでも触れられようとしていたのは、「沈黙」の有意味性であって、それはやっぱ大事だし忘れちゃいけない。

そのことと、でもそればっか寄り添っていると文字通り沈黙気味になる、そうじゃなくてもなんとなく、お行儀が良くなりすぎちゃったりするのだ。

自分の内部はもっとぐちゃぐちゃだしエグいぜえ、
ということと別に、見てる側はもっとわかりやすい刺激がないとノッてくれなかったりする。

そしてノッてくれる、ということは、見てる側が「反応」してくれる、ということで、そこでは彼らが「反応した表現」をしてくれないといけない。
つまり「いいね」とか「好きだ」とかが言われないといけない。

さらに、それが言われるには、それを言いやすい空気が出来上がってないと、彼らは反応を口にしない。
だから、伝えたいことを投げるとき、ただ投げるのではだめなんだろうとおもう。



・よく言う
「仏像があったほうが拝みやすい」
みたいなこともそうだろう。
別に念仏だけがあれば、仏像なんかなくても、拝んでられる。
でも、仏像という物体があったほうが、そこにみんなが行く理由とか、目で見て確認できるありがたみとか、いろいろ出てくる。
人間なんてそんなもんだ。

これから、どんどんAI時代みたいになっていっても、人間の方の本質は変わらないのだろう。
とすると、実存的な領域は置いてけぼりになっていく。
「俺なんて意味あるのかな」
みたいな感覚が、もっとわからなくなってしまうかもしれない。

金がある、儲けていられる、成功してる。
そこらへんで自信をもてている。
そういったところで自分の実存を埋めているような、そういう態度しかありえなくなっていってしまうと、そうじゃない人は実存にあえぐばかりだ。



・さて、
「じゃあお前はどうか?」
「そんなことを安全な場所でのんきに書いているのかよ」
とか、そういう言葉も、必要だ。
「そもそもおまえは誰だ?なにをするんだ?」
とか。

「正しいこと」を、
「いかにもただ正しいような」
言い方で言っても、だめなんです。

そこらへんで、やっぱりいまいち信用されなくなっちゃった、言葉たち、言論人たちも、いまはけっこういるよね。
ここ5年くらいでそれも変わってきた、というか進んできたとおもう。

時間が経つと自然に陳腐になっちゃうことってあるし、そのスピードも早い気がします。



・詩の「沈黙」と、そこからくる言葉、実存を慰める言葉と、
それを機能するようにする仕掛けや言葉も、両方必要だ。
そして、常にそれら全体を解体しようとする声が、聞こえる状態でないといけない。

自分なりに、微力だろうとなんだろうと、なんと言われようと思われようと、
今の時代から、少しでも横にいくような、あるいは潜るような、そんなことをちゃんとやっていく。

そのためにいろいろアンテナ張って、「見たり」します。
「今の時代」を相対的にしてくれる先達の言葉とかね。
それも、当然、自分の興味関心と時間の許す限りなわけです。
だからそれだって有限で、自分の可能性に限界づけられてもいる。
とかく自分は有限だ。



・「ニヒリズムを撲滅する。」
そういう態度ですか。
そうですか。
どうですか。
気持ちいですか。
ナイスでオッケーでゴーですか。
そうですね。
よろしいですね。
よろしいならけっこうです。
けっこうけっこう。


小さい声で言えよ、
と言ってたなあ。
わかるけど。
そう別に小さくてもよかったのだ。
声を発すること自体が重要だった。
そこから、はじまって、
つっこまれながら声をおっきくしていくらしい。


そうですか。
よかったですね。
そうおもえるんだからいいんだ。
それでいいんですよ。

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