さきほどの文章

・今日は何の日だと語り出すのはいつだって僕の観念。どんなにささくれだっていようともどんなに沈黙を押し貫こうとしても、流動する観念が通底している。だからそれを見つめているか気づかないふりをしているかどちらかしかないのだ。ああ最近無視していたなメンテナンスし忘れていたな。僕は僕の観念を見つめてみることをする。それは必要な作業だというある種の信仰が僕にはある。僕は僕に用意された時間をもっと有意義に使いたいと思った。もっと丁寧になってみたい。
こうして書いてみて、以前と違うのは、あらゆるものを<身体論>へ一元化しようとする観念の動きだ。書くものに対してすら、きっと身体からのあらゆる影響が作用する。それから逃れることはできない。逃れられると思うことは尚早の幻想なのだ。彼の書くものは彼のいかなる身体から生み落とされたものか?僕は体幹の柔軟さや呼吸の深さを文章から判定しようとする。それは、僕の先走った選り分けかもしれない。"全て意識的なことは全て間違っている"という思いにとらわれると、それを否定しさることは勇気の欠如のように立ち現れる。いや僕はなにを捏造しようとしている?<書く>という行為はいつも<書くこと>自体の疑義の中に落ちくぼんでいってしまう。それを、振り払うことこそがネクストレベルでの「勇気」だ。そういう言辞の中に表現を結ぼうと思い至った時期もあった。いずれも、振り返ってみれば、自分の執着力のなさ

で ぽん で で ぽん。

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